辞めるんじゃなかった 本気の夢は決して手放すな!【絶対】

どうもtakkyです。「辞める」というキーワードで思い浮かぶのは、仕事でしょうか。それとも追っていた夢でしょうか。僕は人生で一度だけ、「本気」で取り組んだものがあります。

それは8年以上たった今でも、「辞めるんじゃなかった」と後悔をしているものです。一人でも多くの方が好きなことを辞めることの無いよう、僕の体験を残していきます。

辞めるんじゃなかった

きっと僕は一生後悔する。

長いので先に結論を書いておきます。

好きなことは諦めるな。

決断は自分で下せ。

です。中高のことは読んでも読まなくても結構ですが、読まれたほうが共感はしやすい記事になっています。時間がある方はぜひ、順番に読み進めていってください^^

バスケに本気で取り組んだ6年間

中学時代

1年生

小学校時代から仲の良かった友達が揃いもそろってバスケ部に入ったため、深く考えずに僕もバスケ部に入部しました。

 

体を動かすのはそこそこ好きでしたが、身体能力が高かったかと言われると全然でした。身長も中一の頃は140センチそこそこで、同級生に180センチ台が3人もいるのが信じられませんでした。

 

新入部員は30人以上いて、3学年合わせて50人くらいの大きな部でしたが、顧問や先輩たちの管理は”ずさん”でした。そうなると部活動に来なくなり始める連中がいたり、部活中に練習をサボったり、ほぼ全員やりたい放題でした。

 

僕はというと、ルールも曖昧にしか分からない。練習試合にも出られない。でも最初はドリブルが楽しかった。家の中でも練習して、よく母親に怒られたものです。

 

足の下をくぐらせることが出来るようになるだけで、体の後ろでドリブル1回出来るだけで、バスケを毎日続けるだけの価値はありました。

 

例年通り弱いチームだったので、3年生は6月頃に引退してしまいました。そうなると2年生の先輩たちが絵に描いたように幅を利かせるようになったり、1,2年生関係なく今まで来なかったメンバーが練習に顔を出すようになったりして、結局僕は十分な練習スペースや時間すら得ることができていなかったように思います。

 

丁度このころから、1年生でもミニバス経験者のような上手な子たちや、背の高い子たちが顧問や先輩に可愛がられるようになってきました。

 

ちょっと口は悪いですが、僕は当時顧問が「表現しがたいほど嫌い」でした。嫌いすぎて今やどうでもいいので、この記事を書くまでは完全に忘れていた存在です。

 

「形だけの顧問」が僕はすごく嫌いです。何故引き受けたのか。週に数回しか練習に顔を出さない人が顧問だということは、「試合で勝てるわけがない」ということです。

 

そして試合に出てもいないのに負けてしまった選手たちは、どこにその想いを放出すればいいのでしょうか。試合に出ていた選手たちは、負けたことなど忘れたように、「負けるために試合に行っていた」かのように、帰りのバスで騒いでいました。

 

練習試合があるたびに、自分が試合で使うことの無いゼッケンやボールを、持ち帰っては母親に小言を言われる生活が続きました(笑)

 

スコアシートの書き方も教わり、試合に出られない割には仕事の範囲がどんどん増えていきました。

 

よく覚えている出来事ですが、同じ地区の先輩に衝撃的なプレーヤーが現れました。ものすごく背が低いのに、クイックネスが凄まじく誰も付いていくことができない。見ていない方向にパスを通す。真っ赤なバッシュ。

 

バスケをしていて初めて”憧れ“を抱いた人だったかも知れません。ドリブルの練習をしていて良かったと思いました。

 

僕がバスケ部を辞めずに毎日練習できていたのは、仲のいい友達がいたことと、ドリブルが楽しかったからに他なりません。

 

2年生

2年生になると、ベンチに座らせてもらうことくらいは出来るようになってきました。全く試合には出ていなかったので、相変わらず雑用係でした。

 

女子バスケ部の先生が転勤になったタイミングで、それまで男子の顧問をしていた先生が女子の担当に。男子の顧問には新しく転勤してこられた先生が就くことになりましたが、これは僕にとって奇跡的な出会いでした。

 

今までの練習とは打って変わって、とにかく基礎的なことを練習させる先生でした。バスケの”バ”の字を教えてくれたのはこの人で、「出来ないことを怒られない。出来るようになったことを褒めてくれる。常にちゃんと見てくれている。」

 

こんな当たり前のことが中2の僕には衝撃的でした。それまで愛されていない(笑)分、この頃から物凄く練習が好きになりました。上手い子も初心者も、全員同じメニューをしていることも大きかったです。

 

この管理体制によって”ひいき”が全くなくなり、それまで全く試合に使われなかったメンバーも「練習過程」を評価されて試合に出られるようになりました。僕もその中の一人です。

 

先輩たちも、今まで通用していた同級生も、口々に「ババア」と悪態をつきました。きっとそんな雰囲気は感じ取られていたでしょうが、凛として毎日練習に臨んでくれる、いい管理者でした。

 

とは言え昨年までのチーム作りが仇となり、先輩たちは早々に引退してしまいます。尖り続けていた僕にも、多少の存在感があったのか、副キャプテンをすることになりました。特に役割はありませんでした(笑)

 

2年生の誕生日に、親からバスケットゴールを買ってもらいました。すごく恵まれた環境でバスケができて幸せでした。

 

家でウインターカップ(高校の全国大会)のビデオを擦り切れるまで見て、同じところを何度も繰り返して、すぐに外で再現する。

 

本当にね、「好き」だというのはものすごい力を持っていて、毎日の成長が自分でも分かるくらい上達していきました。毎日ですよ?選手として自分自身の、ミリ単位の成長を感じられていたんです。

 

この辺からは、辞める辞めないじゃなくて、どんどんのめり込んでいきました。ボールもゼッケンもスコアシートも、全部進んで引き受けていました。

 

家にリングがあると当然シュートが入るようになります。またリングがそこにあることで、どういうドリブルをしたらシュート体制に入れるのかをイメージできるようになります。「点を取れる」という感覚が、僕のバスケットを加速させていきました。

 

2年生の後半になると、顧問の先生が突然の体調不良で休職になってしまいました。「こいつバスケ知ってたのかよ」という数学の先生が顧問になりました。

 

練習メニューはこれまで通りでしたから、僕は常に全力で手を抜かず練習しました。ラインを踏むまでは絶対にターンをしなかったし、ラインを超えるまでは絶対に10割の力で走りぬきました。

 

今思えばあの時の顧問は可哀そうだった。建設中の中学生チームを突然引き継ぐことになったのですから、生徒の個性やチーム内状況など、分かるはずがありません。

 

結局、尖っていた僕は試合で使われることがなくなりました。「以前の顧問はいつ戻ってきますか」と僕が直接聞きに行った時も、「まだ休んでいらっしゃるみたいだよ」と大人の対応をしてくださりました。

 

今思えば僕は本当にクソガキで、「自分が顧問ならこいつどうするかな」というレベルでした。様々な事情こそあれ、そんな僕を管理し、成長するきっかけを与えてくれたのが前顧問なのですから、今でも本当に感謝しています。

 

僕は中高の6年間毎年顧問が変わる不運に見舞われましたが、今の僕があるのは間違いなくあの時バスケの基礎を教えてくれた先生のおかげです。短期間でしたが考え方に触れられ、基礎練を教えてくれたのは本当によかった。

3年生

この頃になると自信過剰になっていました。「将来はNBAに行きたい」と、本気で思っていました。部内の1対1で負けることはそうそうなくなり、その地区の中学生にしては”考えながら”プレーしていた方だと自負しています。

 

僕らの台はスターティングメンバーの平均身長が180センチ近くあり、区では最強でした。ですが市まで出ていくと勝てません。上に行けば行くほど、「勝つ感覚」を知らないと勝てないのです。

 

僕は副キャプテンとして20秒間試合に出してもらいました。あ、バスケの試合は40分間あります(笑)

 

結局例年とほぼ同時期に引退してしまいましたが、引退した後も常に家で練習をし続けました。前顧問が残してくれた練習メニューも、ずっと家でやっていました。

 

高校生

1年生

同地区で目立っていた先輩たちが、なぜか揃っていました。みんな上手で、和気あいあいで、マネージャーも可愛いし、試合に出たこともない僕がいてもいいのだろうかと思っていました。

 

顧問の先生は県内で知らない人は居ない人格者の先生で、強豪でも何でもない高校の顧問になっては県優勝させてしまうような剛腕(ん、敏腕?いや剛腕)でした。

 

先輩たちも同級生もきつすぎる練習や先生の物言いに陰口は言いまくるんですが、結局全員から愛される素晴らしい先生でした。

 

やることやって、言うこと言う。これができていれば尊敬される。常に自分に厳しいからこそ、その言葉に重みがあり、僕たちは先生の後についていくだけで安心できました。

 

僕は半分くらいが中学の時の顧問、もう半分が自己流みたいな選手で、自信があるないのレベルではなくて、とにかく練習が怖かったのを覚えています。

 

入って1週間ほどの練習で、DF能力とシュート力を全体練習で褒められました。中学から練習してきたこと、自分で考えながら辿り着いたシュートフォームが認められた瞬間でした。

 

ここから先、DF力とシュート力がグングン向上していったのは言うまでもありません。僕は褒められて伸びます!っていうか誰しも、褒められて伸びます。

 

そうこうしているうちにいつの間にか3年生が引退してしまい、2年生主体のチームに切り替わりました。AチームとBチームが存在して、Aがスタメンという感じでしたが、強いて言うなら僕は結局Cチームでした。

 

夏になると1年生大会が行われますが、1回戦で当たった高校が毎年ベスト4に入っているような高校だったので、120対30くらいで負けたのを覚えています(笑)

 

ちなみにこの試合で始めて、試合中に3Pシュートを決めたのも、よく覚えています。さらに言うならこの試合中に更衣室に連れていかれて、スタメン全員髪の毛を引っ張りまわされました!僕は髪が短かったのでシューズをひたすら蹴られました(笑)

 

当時から徐々に体罰にうるさくはなっていましたが、僕は何も感じません。信頼関係、愛、「勝たせてやりたい」という情熱を感じることができたからです。

 

未だに世間が「体罰体罰」言ってる感覚が理解できませんし、僕は騒ぎすぎだと思ってます。勝つために入ったんだから、その為に教わっているんだから、プレー云々の前に人として叱られている場面に、そのくらいの気持ちがない先生は逆に嫌です。

 

1年生の秋ごろ、人生で初めての彼女ができました。一個上の、マネージャーだった人です。2年半付き合いました。多くは語りませんが、まぁ・・・とにかく、結果的に彼女には悪いことをしたなぁと、はい、思ってます。

 

※2年生に進級する直前、人格者過ぎた顧問の先生は教頭になってしまいました。(えっ

2年生

僕たちの代が2年生になって、「あーこりゃーだめだな」って先生が顧問になりました。本当に当時この先生とは噛み合わなかった。

 

知識があまりなかったので、対等もしくは見下すくらいの対応をしてしまっていました。大変申し訳ございませんでした。

 

なのにその先生は、3年生の引退試合のベンチに僕を入れてくれました。高校に入って初めてベンチに座れた嬉しさから、先輩たちの引退はひとしお、感動が薄れていました(笑)

 

高校2年生で先輩たちが引退したタイミングで、僕は間違いなく爆発的に上達しました。

 

またも副キャプテンだったので、重責を負う必要がないこと。これからは自分たちがチームをけん引していくこと。その”自分たち”の中では間違いなく自分が一番上手だと確信していたこと。

 

そんな理由から、僕はコート上で自分を自由に表現しました。誰をマークしても止め切るDF、高精度のシュートと考え抜いてきた駆け引き、やったことがないプレーも沢山挑戦しました。

 

やがて引退した先輩たちが部活動に遊びに来る頃には、コテンパンにしたのを覚えています。

 

ですが、如何せん尖りすぎていました。「思ったことを口に出す」という最初のコミュニケーションを避け、チーム内の状況を悪化させたのは間違いなく僕でした。

 

この頃から僕の上達ぶりとチームの勝率は、見事に反比例していたように思います。同級生キャプテンには僕の統制は無理でしたし、説得力の無い顧問は僕にだけ八つ当たりをしていたので、眼中にもありませんでした。

 

あの頃のチームメイトにも、僕は本当に悪いことをしたと思っていますし、社会人になってから一度再会したときには、堪らず謝罪しました。

 

笑って快く一緒にご飯を食べてくれる、よい仲間だったことに、つい最近気づきました。

 

3年生

3年生になってからは時間の経過があっという間で、引退試合を迎えます。

 

相手は県大会常連の強豪だったのですが、試合の半分が終わったところまでで同点。終盤で一気に突き放されて負けてしまいましたが、十分すぎる思い出です。

 

まさかとは思っていましたが、引退直後に僕は泣いてしまいました。「もっとしたかった」んだろうと、今になってやっとあの涙の訳が分かりました。

 

当然引退した後も律儀に猛練習を続け、大学の部活動でバスケをしている先輩(高校OB)たちをボコボコにしました。

 

大学

関東や関西の大学に行くと、きっとレベルが高すぎて試合に出られない。そう思った僕は、学費も安くて家からもそこそこな距離にある九産大に入ります。

 

九産大は当時、九州内では相当なチームで、中四国九州の「三地区大会」でも準優勝を果たしていたチームでした(入賞しているのは九州勢がほとんどだった)。

 

そのくらいのレベルならついていける自信があると思ったのですが、現実は甘くないものです。入部を希望した僕には様々な条件が付きつけられました。

バスケ部の寮に入ること、大学の授業は5コマ目以降受講できないこと、単位を落とさないこと・・・

 

色々言われたんですが大きく感じたことは3つ。

  1. この監督は僕の入部を歓迎していない。
  2. 大学寮に入れてもらっておいて今更バスケ部の寮に入りなおすことに対する色々な感情。
  3. レベルが高すぎる。

 

特に3つ目ですが、190センチはあろうかという大男たちが僕の何倍ものプレースピードで普通に動いていました。残念ですが、どうあがいても勝てないと、本当に一瞬思いました。

やってみればよかった

結局大学に入ってからは、サークルに入ったりサークルを作ったりしながら、だらだらバスケを続けました。

 

あの一瞬、「どうあがいても勝てない」と思った一瞬を、地元の知り合いに電話をかけて、「辞める」背中を押してもらった自分を、本当に後悔しています。

 

なぜなら、「本当に勝てないのか」対戦したことがないから分からないんです。

なぜなら、「ならもう辞めてもいいんじゃない?」は、僕自身の言葉ではないからです。

 

この記事を書く中で何度も使ってきた「今思うと」という言葉。「今思っても遅い」ということです。

 

今思えば、あの時無理やりにでも寮を移動して入部していれば、通用したかもしれない。練習だけでも参加させてもらっていれば、通用するかどうかわかったかも知れない。

 

NBAとはいかなくても、1部リーグとは言わなくても、どんな形でもバスケをしながらご飯を食べて行けたかも知れない。

 

書きながら涙が出るくらい、後悔しています。いいですか皆さん。

 

好きなことは絶対に諦めちゃダメです。

決断は自分で下さないとダメです。

 

僕は自分の人生において、一番失敗したと思っているのはここです。

 

唯一大好きだった、365日頭から体から離れなかったバスケットボールを、人に背中を押してもらって辞めました。

 

自分が唯一情熱を注げるものを、人に言われて手放しました。

 

あの時せめて、挑戦だけでもしていたなら、「やってみたけど、あの人たち凄すぎてダメだったんだよ。」で済むのです。

 

僕は26年間生きてきて「自分に嘘をついて生きている」という意味がさっぱり分かりませんでした。今書きながら思いました、まさにこのことだと。

 

まとめ

「努力すれば夢は叶う」という言葉が本当なのか、僕には分かりません。努力の仕方が悪い、努力にかける時間が短い等、色々な要素はありますが現に夢を諦める人の方が多いのが世の中です。

 

ですが「諦めるなら納得するまでやってから諦めろ」「やれる選択肢が残っているのなら迷うな」と、皆さんにはお伝えしたいです。僕が何かあなたの力になれるかは分かりませんが、想いを届けることはできます。

 

「いい歳してまだそんなこと言ってるのか?」って?いい歳って何だよ。誰が決めた。お前が”そんなこと”といったこれは、あなたにとっては一番大切なものですよね。

 

「往生際が悪い。しぶとい。」そんなの当たり前です。好きでやっていることだ。追い続けてるんだ。お前らが途中で諦めたからって人の夢まで潰そうとするなよ。

 

どうか皆さん、邪魔をする人の言葉に耳を傾けないでください。好きなことを、好きなだけやっていいんです。あなたの人生なんです。

 

例え親だろうと兄弟だろうと、時には無視していい。あなたの人生だから、あなたの夢なんだから。

 

僕は今のところ、バスケ(プレーヤー)以外に熱くなれたことはないです。でも今が人生の岐路で、好きなことを探すのはウキウキします。

 

最後に

あなたが本気で夢を追う姿に勇気づけられる人が必ずいます。

それほどに力と美しさがあるのです。

 

一緒に人生楽しめたら最高だろ!takkyでしたーー^^

 

 

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