正しさより優しさの時代

正しさより優しさの時代

ども、シプリアーノです。身につけたものが少なすぎて、基本的に思ったことを書く日々です(笑)

実は最近この様なツイートをしました↓

120文字でええ感じに纏まっていると思いますが、少し詳しくお話ししていこうと思います。

結論:余裕の正体は「受容」と「許容」なのではないか

余裕のある男はモテる、器の大きな上司は好かれる。そんな風によく言われます。

そこで多くの人間は余裕を身につけようと思うわけですがどうしたものか、余裕とは何なのか、どうすれば身につくのか分からないわけです。

そして何となく余裕のあるフリをして、数日経った頃にはフリをするのも忘れてしまいます。

ところが僕はここ数ヶ月、10歳は年下であろう子達が沢山働いている職場で一生懸命働く中で、余裕や器と呼ばれるものの正体に当たりをつけることができました。

それこそが受容許容です。

受容

「受ける」と「容れる」で受容。

文字通り受け入れることを受容と言います。

例えば自分と違う意見が出てきたとき、例えば想定外のことが起こったとき、受容できているかどうかが重要な気がします。

これまでの僕は拒否や放棄をしてきましたが、流石に10歳も年下の子たちにそれをするつもりはありません。

ましてや相手は先輩ですし、実力や経験で言えば僕の方が圧倒的に上ですから、受容せざるを得なかったんですね。

するとどうでしょう。お客さんからも大学生と間違われるし大学生のアルバイトからも年下に間違われる僕が、おかしなことに頼られまくっているんです。

それは学生たちの間にも、違和感となって現れます。

数時間一緒に働いているとそれまでタメ口だった子達が敬語で聞いてくる様になります。

「シプリアーノさんっておいくつなんですか?」って(笑)

僕が自分から年齢を知らしめたわけではありません。威張ったわけでも、実力を見せつけた訳でもありません。

ただ受け入れた、受容しただけです。

  • 度重なるタメ口
  • 雑な指示
  • 慣れない職場での働き方
  • 理不尽な力仕事

「なんか違う」雰囲気として出るんでしょうね。

許容

許し受け容れると書いて「許容」です。

もしくは許せるだけの「容れ物」の方でしょうか。

前者であるなら「余裕」、後者であるならそのまま「器」の様な気がします(*´꒳`*)

さて受容と似たような言葉である事は間違いない「許容」という言葉。

実際の使われどころも同じである様に感じます。

あえて違いを挙げるとするなら、互いの間に存在する罪の意識でしょうか。

  • 許して欲しいと思っていること(ミス・過ち・非礼)を許してあげる
  • 許せなかった出来事を許せる様になる
  • 何とも思っていなかった自分の言動が実は、過去に許されてきたものだと知る(罪を犯していたと気がつく)

先述したタメ口はかなり良い例です。

自分より若くて、職歴も浅い奴が入ってきた。自分もそう扱われてきたから、タメ口でも平気であろう。

そう思い込んでタメ口で扱ってきた後輩が実は飲食業歴10年弱の経験者で、立ち居振る舞いや接客において圧倒的に実力があった。

「何歳ですか?」→「30歳です(*´꒳`*)」

ここで初めて自分が無礼な態度で接していたこと、それを笑顔と敬語で許してくれていたことに気が付きます

その後ずっとタメ口を貫き通した人は一人もいません。

僕が威圧したりタメ口を注意したりしたわけではありません。いい関係を築けていると思っています。

お互いに敬語。たまにお互いにタメ口。そんな関係の子達がほとんどです(*´꒳`*)

正しさで判断した場合

さてもし僕が正しさだけを貫いた場合どうでしょうか。

「こっちのやり方の方が早いからこっちでやろうよ」と、年下の先輩たちに言ったとします。

いろんな事を思うでしょう。

  • 今までのやり方と違う
  • 教わったやり方と違う
  • この人は誰で、何の権利があってやり方を変えるのだろうか
  • やりにくい
  • いやだ

など。

これはお互いがお互いの正義に従っているからこそ起こる現象だと思います。

そもそも正しさ・・・つまり正義というものは、人の数だけ存在すると思っています。

価値観という言葉にも非常によく似ている様な気がします。

全く同じ人間が存在しない以上、全く同じ正義も存在しない。それが僕の「正義」に対する考え方です。

優しさは誰かを想うものなのに対して、正しさは自分が信じるものです。

あるシチュエーションで同じたまたま同じ正義を持った人が出会ったなら幸運だと思いますが、人が増えたりやり方が増えたりするとそうシンプルに物事が運ばなくなることの方が多いのです。

であるならやっぱり、正しさより優しさで判断すればいいと思うのです。

  • 一度相手のやり方や考え方を受容してみる
  • 対案を聞き納得できる部分を探す
  • 自分のやり方のデメリットも見つめ直す

「優しさ」をそのまま自分の妥協につなげる必要はありません。

正しさと正しさの間に、一回優しさを挟んでみる。相手のことを考えてみる。それだけでも十分だと思います。

う~ん、それって余裕あるなぁ(笑)

まとめ:優しさ抜きで議論は成立しない

互いの正義だけを持ち寄って、「正義100%」の状態では議論や相談など絶対に成立しません。

理想はどちらにも同じだけの優しさがあること。

最悪の場合でも年長者・上司・先輩の側に優しさがあって欲しいと思っています。

どちらも正義だけでお話しをしようとすると、TVでよく見かけるどうしようもない討論番組に成り下がります。

真面目な話をしている様に見えますが、あれも一種のエンタメです。どちらかの意見を取り入れながら問題の本質に近づいていく討論番組、見たことありますか?

最近流行の「論破」という言葉。何でもかんでも論破すればいいという話ではありません。

論破してしまえば相手は傷つき、自分は何も学ぶことなく終わりです。

「受容」「許容」により余裕や器と呼ばれるものを身につけ、優しい判断ができる様になっていくといいと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございました。また別の記事でお会いしましょう^^

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